Web版 「飛びある記」
(106)
中野 義徳   

 
  勇退も引退もつべこべ言うな!

 『道成寺』の所化たちが、傘を持っての総踊りの準備のため一旦引っ込む。この時、座っていた緋毛氈がそのまま残された中で総踊りが始まった。「アレ、いつもそのままだったっけ」と思った。普段あまり気にしないことだが、この時は、引っ込むとき足で引っかけたか毛氈に皺が寄っていたり、めくれたままだったので妙に気になった訳である。後日別の舞台では、後見が丁寧に一旦片づけていたのを見て、その時のことを思い出したのであった。やはりこれが正統だと思った。
 幕開き、地方の唄など打ち消すほど場違いにけたたましい御簾内の笛や太鼓の音がしたりする。こんな腹立たしい思いをした経験はないだろうか。こんな時、お前が主役じゃないよと、怒鳴りたくならないだろうか。黒御簾音楽とは舞台の効果を上げるために在るのではないのか。これでは逆効果である。歌舞伎公演では指揮監督者がいるが、日本舞踊ではどうなっているのか。主催者は注意人物をよくよくチェックする必要がある。
 パーティなどで、国会議員や地方議員の先生と称するビップが招待される。この先生方が、殆どなべて呆れるくらい文化オンチ揃いである。多分日本舞踊の舞台など覗いたこともない人ばかりである。喋らせれば「伝統文化」「伝統芸能」とのたまうが、話すほど、喋るほど、益々化けの皮が剥がれるだけである。主催者の名前を正確に読めない国会議員など論外で、厚顔無恥の最たるものである。このような輩は選挙が近くなると、求めもしなくとも名刺をやたらばらまく。こんな招待者でも、呼べば箔が付くとでも思っているのだろうか、主催者の気が知れない。プログラムの挨拶文もしかりである。どれも紋切り型ばかりで面白くも何ともない。面白くないのは議員だけでなく、評論家の先生方も人後に落ちない。ある20周年の記念の会に寄せた永六輔の挨拶文は面白く、20回に因んで、「二十」を何故「はたち」と読むかを教えてくれた一文であった。書くことが専門なら、これくらいのことを吐いて欲しいものだ。面白くてエスプリの利いたスピーチや、蘊蓄を傾けてくれる挨拶文を寄せる「先生」が少なくなったのは淋しい限りである。
 昨年暮れ近くの歌舞伎座公演に、常磐津なしの『紅葉狩』が掛けられた。衣装も普通のとは違う能衣装に近いものであった。これを能に近づいたと喜んでいた御仁がいたが、チョット待って欲しいと言いたい。日本舞踊でも能取りものにも見られるが、能から来たものを敢えて能に帰るからには、そこに少なくとも何かの新しい発見がなければ演じるべきではない。ただ能に戻るだけでは何の意味も持たないのである。
 まだいくらもあるが、前号に続いての「?」の一部である。


 法学部の学生だったその頃、試験で「死刑について」の問題が出た。つい、一般的に死刑は是か非かについて書けというのかと思ってしまったが、これは法律の試験の問題だと、ハッと気がついて危うく軌道修正したことを思いだす。
 先年、フランスでは世論の反対を押し切って死刑を廃止した。国連では、すでに20年程前に死刑廃止条約を採択し、さらに昨年は死刑執行停止の決議がされるなど、国際的には世の中、死刑廃止の趨勢にある。現在日本はしかし、依然として死刑存続国である。そんな世界的な動きの中で、国内では存廃の議論さえされないまま、最近は異例といえる早いペースで「粛々と」死刑が執行されている。かって律令時代には、世界に先駆けて死刑を廃止した事実を持つ日本ではあるが、それが今や死刑存続国として先進国の中では例外的存在といわれるようになっている。他の実施国といったら、一部の米国の州のほか、もう中近東やアフリカ程度しかないのである。
 死刑是非については、それぞれ自らの信条や考え方も違っていて分かれる。ただ最近の風潮として、刑量に「報復」の考え方が強く出てきているのが気掛かりである。被害者の遺族の心情は分かっても、下される刑罰が例えば懲役15年はダメで、20年なら故人の霊は救われるというのか。こんな風潮が蔓延すれば死刑廃止論者の立場は悪くなる。そんな中、我が国に来年5月から「裁判員制度」が導入される。誰もが否応なく「重要な刑事事件」の「決断の現場」に引きずり出されるということである。「神」の存在も不明確で、「正義」に優柔不断で「付和雷同」「見ざる・言わざる・聞かざる」体質の人ばかりの中で、この制度が日本に定着するかは甚だ疑問である。


 オリンピックマラソン金メダリストの高橋尚子が惨敗した。現役続行か引退かが注目されるが、何時の時代でも、どの世界でも誰にも引退の時期は必ずやってくる。
 世界ランク4位までいった直後に現役引退したテニスの伊達公子は見事だったし、山口百恵の結婚による引退も鮮やかだった。古来、日本では桜の散り際を尊ぶように、いさぎよさに焦点が当てられるが、しかしそれは、あくまでも他人が勝手に思っているだけのことである。だから、今でこそ当たり前になった、大リーグへの道を拓いた野茂投手がなお限界に挑んでいる姿や、伊達が現役復帰宣言したのも、所詮彼ら自身の人生なのである。要は、自身にどれだけのハードルを課し、そしてそれをどうクリアーするかにあり、それは生き方の違いでもあるから、だから本人のことは本人にしか分からないことなのであり、他人がとやかく言う筋合いのものでない。