Web版 「飛びある記」
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中野 義徳   

 
  久しぶりの、癒される踊り

 すでにお気づきの方もいようが、最近空港とかホテル・イベント施設あるいは学校施設・劇場・駅構内など人の集まる公共的施設内に「AED」(Automated External Defibr illatorなる器具設置の表示が目に付く。
 今、病院以外で突然心臓が停止(心室細動)するケースが、全国で毎日300件以上あるという。心停止が発生した場合、5分以内に電気ショック(除細動)を与えると35〜50%の人の命が助かる可能性があるといわれている。方法としては、救急隊が到着するまで、(1)人工呼吸(2)胸骨圧迫を何十回と繰り返す。「AED」は、この(2)を効果的に行うための機器だが、かくいう私も実物は見たことがないので、それがどんなものかハッキリしたことは分からない。日本語ではそのまま直訳して「自動体外式除細動器」というのだが、これでは益々分からなくなる。人工呼吸は、口をつけて息を吹きかけるのだが、そもそも知らない他人にキスまがいなことは多少なりとも抵抗があるものであり、これが案外ネックになっているのは当然だと思う。しかも最近では、この人工呼吸がクセ者で、これを行った場合回復後の後遺症の危険度が高いという説が出ている。科学的裏付けのある正解が欲しいものである。
 かって私が尊敬していた銀行勤務時代の大先輩が、50代前半の若さでマージャンの最中に、突然うつ伏せに倒れそのまま急死した。居合わせていたわけではないので確かなことは言えないが、一緒にいた人たちは驚いて立ち竦んで何も出来なかったことは想像に難くない。しかしそうであっても、この「不作為の行為」は何も責められないのである。想像してみるといい。突然隣にいる人が倒れたとき、あなたは一体何が出来るというのだろうか。私は全然自信はない。
 名古屋市内の商店街の中にこれを設置してあった。全駅に配置した私鉄さえある。しかし、真先に置いていい場所だと思う国立劇場だが、まだ設置したフシはない。


 NHKの『芸能花舞台』の放送時間帯が、この4月の番組改編で木曜日の午後2時からに変った。こんな時間にこの番組を観る人がいるだろうかと思う時間帯への移動である。再・再々放送は従来通りだから、そちらを観ればいいということだろうが、問題の根は深いといわざるを得ない。本放送をこんな時間帯へ移して平然としているNHK番組編成当事者の、この種の番組に対する位置づけであリ、考え方である。
 翻って日本のテレビ放送は、昭和28年2月にNHK東京テレビジョン局、同34年1月にNHK東京教育テレビジョン局がそれぞれ開局、さらにはその後民放各局が相次いで誕生し、34年の皇太子ご成婚、39年のオリンピック東京大会の開催などをテコとしてテレビは急速な普及・発展をみせた。この間、戦後の開放期、ラジオが先行していた邦楽・舞踊番組が、特に視覚的に合致した有効なコンテンツとして飛躍的に増加した。特にNHKでは30年代半ばピーク時、総合・教育合わせて6番組も放送されていた。しかもこれに携わった人たちは、放送が伝統芸能をどう伝えるかのテーゼだけでなく、どう新しいものを創造するかの使命感や気概に溢れていたし、事実見事な成果を出していた。それがどうであろう、半世紀の経過の中で民放からは完全消滅し、最後の砦となったNHKにおいてさえこの扱いを受けているのが現実で、今や伝統芸能は創造どころか、普及さえ覚束ない所へ来ていることが重大なのである。消えていった、低視聴率の良質長寿番組が辿っていった軌跡と、同じような道を歩んでいる危惧を感じるのである。
 尤も、昨今の無知に近いとさえ思える制作者が作る番組にはさして期待もしえないが、ついでに云わせて貰えば、それと全く同様なことが国立劇場の制作スタッフにもいえる。40年という歴史を積み重ねながら、国立劇場はただ懐古趣味に依存するだけで、ここへきてある特定流儀のお先棒を担ぐような企画を臆面もなく打上げるに至っては、とうとう来るところへ来たかという救いようのない感を深くするだけである。
 現在の教育テレビの『芸能花舞台』(昭63〜)を遡ってみれば、『邦楽百選』(57〜)『邦楽回り舞台』(51〜)であり、その前の総合テレビ時代の『芸能特選』『日本の芸能』などであった。こう並べると今にしては懐かしい響きである。土曜の昼下がり、あるいは夕食後の憩いのひとときに、この番組を観る楽しみが確かにあったことが思い出されるのである。(この項NHK「放送研究と調査」2001年5月号を参考にした)


 「仙田容子りさいたる」(5月30日・東京国立小劇場)を観た。再演物の素踊りを突き詰めた、一挺一枚の最小編成の地方による一中節『競牡丹』と、前回の『縁〜月道成寺〜』に続く、ひと文字路線の囃子音楽のみによる創作『緋〜櫻花猩々舞〜』(曲・堅田喜三久、美術・長倉庸、照明・高木どうみょう)の2本だったが、とりわけて『緋』が素晴らしかった。幕開き、セリから上がってくる振り向き様の猩々の表情が抜群にいい。装置も照明もいい。笛(中川善雄)がこれまたよかった。桜花爛漫の春の宵、花に戯れ、水辺に遊ぶ童心の猩々の純粋無垢さが言い様もなく可愛いい。あたかも無心に遊ぶパンダかコアラのようだ。久しぶりに癒される踊りに出会った。しかもただそれだけでなく大事なことは、これはまた演者の痛烈で明快な現在社会への批判であり文明批評でもあることである。演者は「心」をただひたすら「体」で表現するが、その「体」は五体、五感すべてに凝縮させていた、と感じた。