Web版 「飛びある記」
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中野 義徳   

 
 全くショッキングな出来事であった。アメリカ同時多発テロ事件である。文明の極みの高層ビルと、世界一の軍事力の象徴であるペンタゴンに、ハイジャックされた飛行機が突っ込んで、世界中を慄然とさせた。太平洋戦争の日本の「皇戦」以上の「ジハード」(聖戦)である。社会主義崩壊後唯一の超大国アメリカの面子丸潰れ、そして「報復」、日本も当然の如くこれに同調。だが待ってほしい。アメリカが失敗したベトナム戦争の二の舞の心配はないか。これは「文明」というより「文化」の衝突だから、貿易センタービルが瞬く間に崩壊したようには、相手はそう簡単には潰れない。戦後日本は、物質的豊かさと引換えに多くの文化を失いアメリカナイズされた。が、宗教を背景とする「文化」の崩壊は容易なものではない。叡知ある人間の唯一の道は、相手の「文化」を理解し認めることから始まることを肝に銘ずべきである。
  「想像してごらん、天国も地獄もない世界を、国境も宗教もない世界を、すべて
   の人々が世界を分かち合っている。」(ジョン・レノンーイマジン)
  「死んだ兵士の残したものは、こわれた銃と歪んだ地球、
   他にはなにも残せなかった、平和ひとつ残せなかった。」(谷川俊太郎)
 
 ファッション業界にディスプレイ部門がある。独立した産業としても存在している。
ファッションは、「商品」としてその展示の仕方でいかようにも輝いたり、くすんだりする。だが、あくまで「フアッション」に付随する部門であって、ディスプレイ部門はそれだけでは存在しえない。
 「集団日本舞踊21」公演(七月二十三日〜二十四日・日本橋劇場)とアナザー・カンパニー「日本舞踊の世界」(八月二十四日〜二十六日・品川六行会ホール)があった。前者は昨年とは逆に年代を遡って舞踊を展示し、今回はその上に「和楽器と日本舞踊」のワークショップを加えた。後者は例年通り、ロビーに楽器等を陳列し直に触れてもらう場を設えた。「作品」を例にストップモーションでの解説や、舞台裏を見せたり工夫を凝らす。しかしどちらも、これはディスプレイの問題である。「ディスプレイ」はどんどん新しいものが出てくるので、その展示方法をあれこれ考えるもので、「ありもの」の取っ替えひっかえはやがてネタがつきる。背景に「日本舞踊」の「啓蒙」と「普及」への熱意があり、その労は多とする。が、啓蒙運動とて草の根運動で、もっと地道で地味な活動が必要になってくる。花のお江戸のど真ん中や、東海道第一 の宿駅辺りで展示していればいいというものでもない。
 
 『創作舞踊劇場・火の鳥』が面白かったのは、Aプロ・Bプロに分かれ、舞踊家達の個性の違いが出たところにあったのではなかろうか。「ヒミコ」(花柳寿美・橘芳慧)「猿田彦」(猿若清三郎・若柳壽延)は最たるもの、AとBで時間が二十分から三十分違った。これは何を意味するか。今回は個々の舞踊家の個性で見せたドラマだったせいなのか。事ほど左様にそれぞれの個性、役づくりの違いが面白かった。それは結構なのだが、この時「演出」はどんな立場だったのだろうか。今回の「創作舞踊劇場」のツー・プロ・システムが、その効果を意図したものなら大成功といっていい。

 
 今年の「華扇会」と「推薦名流」は楽しかった。個々の演目では清元『お夏』(藤間藤太郎)『三社祭』(阪東勝友・朋奈)などの「華扇会」に、常磐津『雷船頭』花柳衛彦)などの「推薦名流」といい勝負。それに両者の「企画番組」はいずれも面白かった。決して作品の完成度は高いものではなかったが、そのことはこれらの作品の上演価値を落とすことはない。
 その中では「華扇会」の三日間キリに登場した『わかば』(作・目代清、作曲・杵屋寒玉、作調・堅田喜三久、振付・花柳輔太朗)が圧巻で、総勢五十二名の花柳流の若手達の舞台は壮観であった。中には初舞台の舞踊家も少なくなかったようだし、北海道から九州までの踊り手達がエネルギーごと集結した。それをあそこまで創り上げた「花柳流」の総力は驚嘆に値する。その後見る「創作」の「多数立ち」が陳腐に見えること夥しい。主催者が心すべきことは、『わかば』を観た観客はもう二十世紀には戻れないということ。また神奈川県在住の舞踊家グループ「いいとも会」の「推薦名流」の一弦奏『須磨の四季』(振付・坂東以津緒、藤間恵都子、坂東三信之輔、花柳佐郁)が思わぬ収穫。単なるセンチメンタリズムに陥らない、しっかりした構成とメッセージをもっていた。
 日本舞踊の「群舞」には限界がある。そもそも平面的であり、表現方法も上半身主体である。『火の鳥』の「群舞」でもその欠陥を露呈している。ピカソの立体画は日本画では表せない如くに、これを三次元の世界で展開する時、従来にない日本舞踊の表現方法を見いださなければならない。この意味では『稚魚』(弧の会・推薦名流)は問題提起をした。「暴れる」に近い彼らの表現をどう評価したらいいか。あるいは、『わかば』が暗示する劇場機構を最大限に活用する手法も含め、今後の課題とすべきところ大と言うべき。