Web版 「飛びある記」
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中野 義徳   

 

ある会員制スポーツサウナで、ロックの矢沢栄吉と一緒の時、彼が話をしてくれた。「若いうちはツアーとツアーの間がいい休養になったが、今はこの時にインプットしておかないと後が大変」と言うのである。また、「おんぼろ人生」の漫画家加藤芳郎は、ゴルフを一緒したとき「四コマ漫画は年取ってくるとこたえる」とも言っていた。二人の言に共通していたのは、四十過ぎてからの創作活動のシビアさであった。そういえば曾て、新聞連載の「サザエさん」の長谷川町子の晩年度々の休載は、病気のためだけではなかったらしい。
 三島由紀夫が死を選んだのは丁度四十五才の時。「十五の夜」であれだけ繊細で脆い少年の感性を歌い上げて、熱狂的な若者の支持を得た尾崎豊は二十代で命を絶った。天才モーツアルトの死は三十代であった。映画監督黒沢明の後半生は見るも無残だった。人間の才能は無限なものでなく、早熟は短命かも知れない。ただ、創作活動というものは、色々な意味での「若さ」と無縁なものでないことは確かなようである。
 翻って日本舞踊界を眺めてみると、外の世界との落差に驚くばかりである。書き手だけみても、作家が限られる。新人が出てこない。際立った創作作品が現れない。テーマが限られている。何故であろうか。失敗作となっても、レコードの売上に影響する訳でもない。本が売れなくなることでもない。ファンが寄って来なくなることもない。要は、厳しい外界の批判に耐え得るものの提供の緊急度が、あまりないことであろうか。


 先日、原稿書きで夜更かしをしていて、息抜きにとテレビを点けたら往年の名画で社会の矛盾を鋭くえぐることで定評の、シドニー・ルメット監督処女作『十二人の怒れる男たち』が始まったところであった。私の映画コレクションの中でも大好きなもので何度も見ているが、今更ながらその迫力に引き込まれて最後まで見てしまった。お陰で原稿書きは全く捗らず夜も白々と明けた。この映画は一頃、各企業が社員研修用の教材としてよく使われた。十三人の性格を分析し、自分がどのキャラクターにあたるかの議論のなかで自己啓発を進めるというものである。
 父親殺しの容疑の十八才の被告が有罪かどうかを、十三人の陪審員が判断する過程を描いたディスカッション劇。何故「十二人」がといえば、ハナから有罪と極め付けている人が大半の中に、一人だけ無罪を主張する人がいる。早く終わらせて野球見物に行こうという者や金策に出掛けたい者がいて、一人の反対で時間が延びるので「怒る」のである。わずか一時間半の白黒の、登場人物は十三人だけで冷房もない夏の暑い一室内が舞台。短い挿話のなかでこの十三人のイメージを浮き彫りさせる手法が見事。練り上げたシナリオがあってはじめて、こういうキチッとした映画が出来上がるのであろう。最近の映画はやたらCG処理ばかりで辟易とするが、この映画は長いショットの連続の手作り映画の見本である。
 ディズニー映画も面白くなくなった。キャラが無機質化してしまっている。今になってみると、ミッキーマウスやダンボの時代が懐かしい。ブロードウエイ・ミュージカルもディズニーの参画で大作が続いている。『美女と野獣』や『ライオンキング』のように、衣裳の奇抜さと早変わり、大仕掛けの装置転換など、金をたっぷりかけた大作競争に毒されたブロードウエイが現出している。イギリスはまだましで、例えば両者の『オペラ座の怪人』をみれば歴然。正統的「踊り」と「歌唱力」で震え上がらせてくれる作品が見当たらないのは寂しい。


 古い映画のはなしのついでに、『ウエストサイド物語』について。映画にもなった、ブロードウェイミュージカルの往年の大ヒット作、これがシェークスピアの『ロメオとジュリエット』が下敷きだということを知らない人はいない。しかし、舞台をNYマンハッタンの、今は再開発されてリンカーンセンターとして見事によみがえっている、荒れはてた大都会の空間において、移民同士の若者のもって行きどころのないエネルギー発露の中での悲恋物語としている。クラシック畑の大御所、バーンスタイン作曲の「アメリカ」や「ツゥナイト」などの曲で綴られて、シェークスピアはあとかたもない。第一、肉体関係のある「ロメ・ジュリ」なんて聞いたことがない。
 今年の「創作舞踊劇場」が「カルメン」だと聞いた時ある危惧を持った。かってとりあげた題材でありそれはそれでいい。それより、翻案劇の難しさは一筋縄ではいかないことである。実は昨年上半期を通して、新国立劇場で「チェーホフ・魂の仕事」の連続上演があった。これは翻案劇失敗の典型的なケースであった。作品にはそれが生まれた必然がある。作品の作られた、作者の生きた時間と空間を捨象して、特異性と普遍性の認識も弁えず(実はこの認識の過程こそが創作活動そのものだが)、テーマは永遠のものだとか、普遍的だとかいって嘯くのは、この種の仕事に携わる者の怠慢であり、創作活動でもなんでもない。今回はチラシに「音楽」が示されていないが、まさかに「ビゼー」を「日本舞踊」でなぞって見せようというのではなかろう。危惧が単なる危惧で終わることを祈る。