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サラリーマン社会では、評価に業績主義を採用する傾向が加速度化している。日本の高度成長期の経済社会を永いこと支えてきた、年功序列と終身雇用制が崩壊しつつあるのである。この旧体制はその前提として、経験年数がスキルを向上させるという仮説の上に成り立っているということである。しかし、これはあくまでもフィクションであって、ここにメスが入れられなければ本当の業績主義にはならない。個人の能力からみると「働く」ということと「働かせる」ということとは、実は全く別の次元にあるということ、質的に違うのである。このことは、サラリーマン社会に限らず、別の社会でもよく起こり得ることである。例えばスポーツ分野で「名選手、必ずしも名指導者たりえず」という事態がしばしば起こっている。プロ野球の世界では未だに未分化の状態のままで意識もされていない。これが徹底しているのはサッカーJリーグで、ここでは指導者ライセンスの取得には、超えなければならない選手とは異質の高いハードルがある。
日本舞踊の世界に目を転ずるとどうだろう。踊りの会など拝見して、名手の一門門弟に必ずしも上手な人が育っていないと感じるときがある。各流派での名取と師範の違いはここにあるのだろうが、それは明確な意識や基準があって識別・登用されているのだろうか。名取より技術の高いのが師範というような簡単なものではなく、技量の延長線上に教える資格があると考えるならば間違いである。振付という分野を取ってみても同様。ここでは振付師が独立した職業として認められていない。技術的には際立っていなくとも、指導者、あるいは振付師として力量を発揮するものがいても決しておかしくない。
芭蕉の門弟去来は、師のことを「門人に教え給ふにそのことば極りなし」といっている。「そのことば極りなし」とは、教える相手によって指導の仕方を変えていたということ。芭蕉は俳諧の名手であるとともに、指導者としても一流であったということである。
「罪を憎んで人を憎まず」と、孔子まで持ち出す小泉首相の靖国参拝の論理は無茶苦茶である。またこれに正面から突こうとしない与野党議員も相当いい加減である。同じ穴のムジナであるからでもあろうか。
正月の靖国神社へ行ってみるといい。周辺は、右翼の街宣車が集結してごった返している。これは最早異常な状態である。境内では国旗を振り回している人もいる。靖国神社はこの様に、通してすでにそういう「色」を持ってしまっているのだ。こんなところへ、政府要人が安易に出掛けてはならないのである。不戦の誓いのために行くというが、そんなことはいくらでも別の形で表せる。靖国参拝を個人の問題にすり替える、小泉首相の不戦の誓いはまやかしでしかない。
北海道のある篤志家夫婦が愛息の不慮の死を契機に、さきの大戦の激戦地沖縄での遺骨発掘に乗り出して、15年間で700体の遺骨を掘り出したという。全くのボランティアである。今この輪が広がって、若い人たちも加わってきているというのだ。このことは、戦後60年間、政府が沖縄戦の後始末さえ行っていないことを示している。今回のフィリピンでの旧日本兵の問題を引き合いに出すまでもなく、日本という国は国内における戦後処理さえ放置しているのである。靖国参拝を正当化しようとする首相に、正論を吐くひとがいない日本という国がおかしいのである。
ついでの話。日本の国連での安全保障理事会での常任理事国入りほど馬鹿くしいものはない。日本が国連に多額の金を拠出しているからというのが近隣諸国の神経を逆なでしている。世界中の加盟国に支持を取り付けようとキャンペーンを行っている。しかし隣近所の支持も得られなくしては、よしんば理事国になっても日本は益々世界の孤児となるばかりである。理事国入りに中国の賛成を取り付けるためにも、小泉首相は靖国参拝を中断すべきという主張に至っては支離滅裂で唖然とするしかない。
近時の文化庁の「文化」に対する積極姿勢は目覚ましいものがある。これはこれで誠に結構なことである。今議論されている「教育基本法」の改定に、この点が盛り込まれようとしている。「中教審」(中央教育審議会)の答申にも、教育の目標の一つとして「日本の伝統・文化の尊重」という文言が加えられるべきというのだ。このことは憲法改正の中身にも及びそうである。しかし、翻って考えてみると、文化や伝統なるもの、あるいは郷土愛、さらには国を愛する心―国歌や国旗を大事にすることは、そこに住む人々の間から自然発生的に生まれ育まれるものであって、決して国が作り強制し、従わない者を罰するという類いのものではない。これだと60年前へ逆戻りすることになる。
日本舞踊がかって、国から一切の援助もなく全国的に隆盛を極めていったように、広くそこに住む人たちの生活のなかに定着してきたものだから「文化」といって胸を張れるのである。この点、日本舞踊協会を中心とする現在の日本舞踊界が、果たしてこの延長線上にあるかは疑問なしとしないことではある。
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